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終戦 70 年特別コンテンツ、「アメリカ陸軍第 100 歩兵大隊」その1

アメリカ陸軍第 100 歩兵大隊
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第100歩兵大隊旗デザイン (左) / 第100歩兵大隊部隊章DIデザイン (右)

アメリカ陸軍第100歩兵大隊は、第2次世界大戦、戦前からハワイで徴兵され軍務についていた1432名の日系アメリカ人を中心に編成された独立大隊である。

ウィスコンシン州キャンプ・マッコイでの訓練を経て、ヨーロッパ戦線に投入。イタリア戦線及び南フランス戦線でドイツ軍を相手に果敢な戦闘を繰り返し、アメリカ陸軍史上、他に類を見ない功績を残した。

第二次世界大戦中の従軍者3147名、戦死者338名、負傷者は延べ9148名であり、その数字からも戦いぶりが見て取れるだろう。

第100歩兵大隊の欧州戦線における叙勲
大統領部隊感状 3
議会名誉勲章  1
殊勲十字章  24
銀星章   147
銅星章  3111
殊勲章     9
軍人勲章    8
紫心章  1703 
師団表彰   30
フランス戦時勲章2
イタリア戦時勲章5
今回、第二次世界大戦の終戦から70年を迎えるにあたって、この第100歩兵大隊を取り上げたのはハワイ日系アメリカ人が日本の歴史においても重要な位置付けを持っているからである。

第二次世界大戦の中でも重要な部分である日米の太平洋戦線は言うまでもなく日本海軍によるハワイ攻撃から始まった(厳密には陸軍のコタバル上陸作戦が先に行われている)

ハワイに生活の根を下ろしていた日系アメリカ人にとっては、自らもしくは親の祖国からの攻撃であった。当時兵役についていた日系人(多くは二世)達は戸惑いながらもその軍務を果たし戦闘に参加している。

しかし、戦闘後は日本人に対する敵愾心や恐怖心から軍隊で、職場で、また街中においても差別を受け、不遇な立場に立たされている。

そんな中でハワイ国土防衛軍に所属していた日系兵士達は、アメリカ陸軍の軍人として命令に忠実に従い、新たに結成された第100歩兵大隊として欧州戦線に従軍し、前述の戦功を上げたのである。

また第100歩兵大隊とは別に第442連隊戦闘団に志願して参加し、第100歩兵大隊と共に欧州戦線で戦った者や、MIS(陸軍情報部)に所属し、通訳として対日戦を戦った者も多く居た。

彼らはもちろんアメリカ陸軍の兵士であり、戦時中は日本の敵であった。

しかし同時に日本の行く末を憂い、日本人を心配し、玉砕しようとする日本軍を身の危険を顧みず説得して降伏に導いたり、日本軍捕虜の為に尽力する者も多く居たのである。

更に終戦後は欧州戦線より帰還した第100歩兵大隊、第442連隊の兵士達からも、MISまたは通訳軍属として日本に進駐し、戦後の日本とアメリカの関係に尽くした者も居た。

またハワイからは、戦後すぐの物資に困窮する日本の現状を知って緊急援助物資が送られ、同時に日本の復興のための基金なども設立された。「最初に攻撃されたハワイで」である。

これらの事は多く日本で知られておらず、ハワイ=観光地と言うイメージしか持たない日本人も多く居る事と思う。
ハワイと日系アメリカ人について、日本人の多くに知って欲しいという願いから、今回はその代表格である第100歩兵大隊を現代の日本人リエナクター(再現者)による再現写真を交えて紹介する。


■前史
ハワイにおける日系アメリカ人の歴史は古く、最初の移民(元年者と呼ばれる)は1860年である。その後、日本政府が斡旋した官約移民、更に民間会社が行った私約移民を経て1924年の移民法によって日本人のハワイ移民が不可能となるまでに約22万人が移民した。

彼ら移民の一世は基本的に日本人であったが、その子供たち二世はアメリカで生まれたアメリカ人として人生を歩むこととなる。

多くの日系アメリカ人二世達が成人する1940年。ハワイでは1543名の日系人が徴兵によってアメリカ陸軍に入隊し、ハワイ国土防衛軍の第298及び第299歩兵連隊に所属していた。そして運命の真珠湾攻撃による日米開戦を迎えることとなる。

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ハワイ、スコフィールドバラックスで訓練中の日系兵士

真珠湾攻撃の後、当初は国土防衛軍の軍務として海岸線の警戒などにあたっていた第298、299歩兵連隊の日系兵達であったが、ミッドウェー海戦が近づいた1942年5月、日本軍の上陸が予想された事から軍務から外され銃を取り上げられて待機させられる事となる。

6月には両連隊の日系兵を中心に白人の将校等を含む1432名でハワイ臨時歩兵大隊が編成、アメリカ本土へと移動する事になる。

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ハワイで海岸線の警戒にあたる日系兵士

■第100歩兵大隊結成
オークランドに上陸したハワイ臨時歩兵大隊は陸軍第100歩兵大隊と名を変え、列車にてウィスコンシン州のキャンプ・マッコイへと移動する。

通常の歩兵大隊は親部隊となる歩兵連隊の下に第1、第2、第3大隊と編成されるが第100歩兵大隊には親部隊もなければその部隊番号も特殊なものであった点、アメリカ陸軍もその扱いに苦慮していたのが見て取れる。

キャンプマッコイでは既にハワイで終えていた基礎訓練を再度やり直し、訓練成績で他の白人部隊を遥かに上回る成績を修めていた第100歩兵大隊は1943年4月ルイジアナで行われた大演習に参加し、戦闘可能な部隊としてその実力を上層部に認められる。

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キャンプマッコイにて訓練中の第100歩兵大隊兵士

そして1943年8月、ブルックリンより輸送船に乗船しヨーロッパ戦線へと旅立っていった。

■出征、初陣
1943年9月に北アフリカのオランに上陸、当初鉄道警備等にあたる予定であったが、大隊長ファーレント・ターナー中佐が戦闘任務を強く希望し、その噂は司令部でも話題になったと言う。

噂を聞きつけた第34歩兵師団長チャールズ・ライダー少将が「面白いじゃないか」と、興味を持ち、隷下の第133歩兵連隊の第2大隊として第100歩兵大隊を加えた。

第34師団所属となった第100歩兵大隊は9月22日に南部イタリアのサレルノに上陸。
9月28日にはサン・アンジェロ近郊で初の戦闘を経験し、第1号となる戦死者も出たが、大隊はドイツ軍の防衛線を突破して初陣を勝利で飾った。

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左:中隊本部での日系兵と白人将校。
右:電話線を敷設し、有線電話を使用した通信を構築する第100歩兵大隊兵士

10月10日に第34師団よりヘルメットに部隊章をペイントするよう命令が下りる。
師団の1員(ひいてはアメリカ軍兵士として)に認められた証であるこの措置は、多くの兵士を喜ばせた。

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左:無線機を使用し、迫撃砲の弾着を観測する第100歩兵大隊兵士
右:前線での劣悪な環境下で携帯糧食「K-レーション」で食事を摂る兵士

以後、年が明けた1944年1月10日に至るまで第100歩兵大隊は常に先鋒を務め、2度も大隊長が交替するという激戦で100名を超える戦死者を出しながらも高地群のドイツ軍を次々と突破し、イタリア戦線最大の難所と呼ばれたモンテカッシーノに迫るのである。

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左:歩哨壕にて警戒中の兵士。
右:廃墟のドイツ軍を掃討中の兵士。


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左:極寒の中、野営する兵士
右:缶詰のCレーションを食べながら警戒中の兵士。

1944年1月23日~2月15日の間で行われたモンテカッシーノの戦いは、第100歩兵大隊にとってもっとも辛い戦場であった。
小高い丘から見下ろされる平野部には身を守る障害物、木々も一切無く、上流を破壊されたラピト川の水が氾濫して当たりを一面の泥濘に変えていた。

第100歩兵大隊は、凍えるような吹雪の中で昼間は死体のふりをして転がり、夜間に泥まみれになりながら前進するを繰り返し、他の連合軍がそれまでたどり着けなかった対岸まで渡りきった。

しかし、他の友軍が追従できず、孤立しついには撤退を余儀なくされる。

モンテカッシーノの戦いは彼らが敗退した唯一の大きな戦闘であり、その負傷者の多さから「パープルハート・バタリオン(戦傷章大隊)」の異名でも呼ばれたと言う。

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吹雪の中、高地を攻撃前進中の第100歩兵大隊

1944年2月~3月の間で補充兵を加え再編成を行った第100歩兵大隊は3月24日にアンツィオへ上陸、以後6月に至るまでアンツィオ橋頭堡での戦闘に従事する。

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前線へフードコンテナを使用して糧食を届ける兵士。

1944年6月3日、第100歩兵大隊長ゴードン・シングルス中佐は、第100歩兵大隊に5つの重火器部隊を加えた「シングルス任務部隊」の指揮官となる。

ドイツ軍装甲師団の守る高地を瞬く間に陥落させ、更にハイウェイを前進。その進撃速度はあまりに速く、ついには師団司令部との連絡も取れなくなる始末だった。

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前進中の第100歩兵大隊兵士

6月5日にローマまで10kmに迫った第100歩兵大隊は、すべての連合軍部隊の先頭に立っていた。しかし、彼らに他の部隊の通過を待つ命令が下され、日系人部隊によるローマ一番乗りは無くなった。

第100歩兵大隊の1人が言うには「機甲師団長がローマへの先導をするためだった」
(※実際にローマに一番乗りで入城したのは第1特殊部隊とその指揮官、ロバート・フレデリック大佐であり、彼らは第100歩兵大隊よりも早くからイタリアで戦っており、その戦歴も第100歩兵大隊に負けず劣らずだった。また、当時のB中隊長だったサカエ・タカハシ氏は「通常の措置であり、人種差別ではなかった」と証言している)

ローマに入れなかった第100歩兵大隊の目的地はローマ北西の町外れであり、夜の10時30分に到着する。

その後更に40マイルの移動の後、第100歩兵大隊はチビタベッキアの北に到着、ようやく休息を取った。

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左:支援中の60mm迫撃砲班
右:斥候を終えて野営地へ帰還する分隊。

■1944年6月11日
新たにハワイと本土からの日系アメリカ人志願兵で編成された第442連隊戦闘団に編入、その第1大隊となるが、名称は第100歩兵大隊のままとされる。

この措置は異例の事であり、それだけ第100歩兵大隊の勇名がアメリカ陸軍全体に轟いていた事の証明であろう。

以後、第100歩兵大隊は第442連隊戦闘団の中核として終戦までヨーロッパ戦線で戦い続け、更なる多くの武勲に輝く事となる。

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左:チビタベッキア近郊で集結中の第100歩兵大隊
右:集結地にて閲兵を受ける第100歩兵大隊



Photo & Text: ReenactmentGroup BCo/100bn "先任"

その2へ続く


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